随想
歌が歌えないわけ (幼い日の思い出)
(幼い日の思い出)
楠瀬 邦夫
(高知市)
昭和十一年四月、高知市立第二尋常小学校に入学した。この年の二月には、帝都を震骸させた二・二六事件が起こり、ベルリンで行われたオリンピックでは、二百米平泳ぎで前畑選手が、マラソンでは孫選手が金メダルを獲得し、棒高跳びでは、日本人選手同士が二位・三位を争ったが深夜になっても結着がつかず、一度でクリアした選手を二位に二回目にクリアした選手を三位と決め、結着させた。二位の選手は、銀メダルと銅メダルを半分に割り、それを溶接して半銀・半銅のメダルを作りお互いの首にかけ友情のメダルとして今に語り伝えられている。
 明けて十二年、この年は、年明け早々から中種・京町・新京橋などの繁華街で「東京音頭」
に合わせた踊りが深夜まで繰り広げられた。
 商店主・おかみさん・店員さんに子供も交じり、時には「得月楼」「ねぼけ」などの綺麗どころ
も繰り出して、お馴染みさんから声援を受けていた。
 鈴蘭灯の柱に括り付けられた桜の造花が光を射して街全体がピンク色に染まり華やかな雰
囲気をかもし出していた。「どうして踊りゆうが」と聞くと「土讃線が全線開通したき、それを記念して博覧会が開催されると、その前景気に踊りゆうがよね」とのこと。鏡川の南岸には、パビリオンが急ピッチで建設されていた。
 柳原・山内神社の崖下には、サーカス小屋も作られ、小屋の前には、象・馬が繋がれ馬の上には、ピンクのドレスを着たお姉さまが跨り愛嬌をふりまいていた。呼び込みの小父さんが時々、紐を引くと、幕が上がって場内が望見でき、入って見たいという気持ちをかきたてる。
 博覧会が始まると、海軍館・陸軍館・逓信館.郷土館などを見物し逓信館で自動交換機を始めて見た。電話機のダイヤルを回すと、チャチャチャと上にあがり、ツツツと横に走って隣の電話機のベルがなる。面白くて何度も何度もダイヤルを回した。郷土館では、境事件の切腹の場面や武市半平太幽囚の場面のジオラマが印象に残っている。
 そんなある日、永野修身聯合艦隊司令長官率いる聯合艦隊の一部(陸奥・長門・伊勢・日向
ではなかったかと思うが定かでない)が、種崎沖に投錨した。夜は探照灯が照射され光の柱が左右に揺れ、時には交差し又離れるという光の芸術が高知市内からも望見できた。
 農人町からポンポン船に乗って見学に行った。船が舷門に着くと水兵さんが降りてきて、猫の子でも掴むように抱きかかえられ甲板に立たされた。四十センチ主砲の大きさ・甲板の広さに驚いた。艦内を案内され、烹炊所(台所)には大きな蒸気釜が並び「この釜二つで乗組員全員のご飯が炊ける」(七年後に蒸気釜の飯を喰う身になろうとは)と説明を受けラムネの製造所などを見せてもらった。
 七月七日、北京郊外盧溝橋での銃声一発、支那事変が勃発した。朝礼のとき、校長先生から「日本は、支那に対して宣戦布告をしてないから、戦争とは言わない。あくまでも事変である。」説明されたが、事変と戦争の区別が良く分からなかった。
 数日後、「今夜、四十四聯隊が出征するので親の許しがあれば、九時に校庭に集まれ」と言われ、時間に行くと、日の丸の小旗を渡され、高知橋の北詰に並び待っていると、播磨屋橋の方から「万歳・万歳」という声が聞こえ、程なく軍旗(聯隊設立時に天皇陛下から下賜される旗で陸軍では丁重に扱っていた。ちなみに海軍の軍艦旗は消耗品)を先頭に靴音高く兵隊さんがやってきた。「万歳・万歳」と手にした小旗を振って見送った。肩にした小銃は白布で覆われていたのが不思議に感じられたので、先生に聞いてみると「海を渡るので海水で銃身が錆びないようにしているがよ」とのことであった。
 新京橋の快や高知駅などには、おばあさんや赤ちゃんを背負った小母さんが千人針を縫ってくれるよう呼びかける姿を見掛けるようになった。
 暫くして、朝礼のとき、「和知部隊(四十四聯隊)は、羅店鎮・白壁の家の戦いで赫々たる戦果をあげた」と校長先生から話を聞き、やっぱり郷土部隊は強いと誇らしい気持ちになった。
 往く者があれば、帰る者もある。秋の初め、「英霊が帰るのでお迎えする。」と引率されて高知橋の北詰に整列していると、高知駅の方から、胸に白木の箱を捧げた兵隊さんの集団がやってきた。「最敬礼」の号令がかかり、礼をしていると靴音が過ぎていく。出征する時の靴音は勇ましく響いたが、このときの靴音は物悲しく、しめや伽に聞こえ、頬のあたりの筋肉がぴくぴくしたのが思い出される。
 十二月十三日南京城陥落。日の丸の小旗を渡され、先生に引率されて旗を振りながら県庁まで旗行列をした。県庁のバルコニーに出てきた知事さんに向かって万歳を三唱し帰校した。 夜は夜で町内会の提灯行列に加わり万歳を連呼しながら市内を歩いた。帰ると町内会長からキャラメルや鉛筆を貰い悦にいったものである。こんな事が三日三晩続いたように思う。
 二年生の三学期、恒例の学芸会が開催されることになったが、「今年は傷庚軍人をお招きするので皆頑張れ」と言われ、張り切って練習に励んでいた。子供よりも先生が張り切っていたように思う。二年生は唱歌(題も歌詞も思い出せないが、兵隊さんに感謝する歌であったように思う)を合唱することになり、オルガンに合わせて少年少女合唱団も練習に励んでいた。
 これが最後の練習になると言われ声を張り上げて練習していたが、ある所に来るとオルガンの音が止まり、「いかんいかんやり直し」こんな事が五・六回繰り返された。
 「楠瀬君今度は歌わんといて、初めからやり直し」するとどうであろうか、オルガンの音は最後まで止まることなく歌い終わった。「よくできました。楠瀬君は学芸会でも歌わんといて」と言いおいて教員室へ帰って行った。帰宅して母にこの事を告げると、明治生まれの母親は「先生が歌うなと言うがやったら歌わなあええわね」。「明日学校へ行って先生に頼んぢゃらあね」という返事を期待していたが、これでは取りつく島もない。
 当日になると十数台の電車に乗って傷病兵が軍医や看護婦さんに付き添われて続々とやって来た。片足がなく松葉杖をついた兵隊さん、腕を三角巾で首に吊った兵隊さんなどで講堂が一杯になった。
 学芸会が終わると校庭に並び「お国のために傷ついた兵隊さんのお陰です」と感謝の気持ちで見送った。
 小学校の先生は「訓導」と言われていたが、投げ出すことなく訓(さとし)・導いてくれていたら人並みに歌も歌えたものをと、思えてならない。
 何のことはない、生来の音痴をこんな出来事にかこつけて先生の所為にするとは。
 七十年も前の幼い日の思い出である。