随想
手相・人相

(高知市)
貴方は、手相・人相占いを信じますか。
 昭和19年4月1日、松山海軍航空隊司令から「海軍甲種飛行予科練習生を命ず。」「海軍二等飛行兵を命ず。」との命令を受け、第一の職場である帝国海軍への就職が決定した。
 それからの一か月、敬礼の仕方、行進の仕方などの初年兵教育を受けながら、操縦(飛行機の操縦を担当する者)、偵察(通信・航法・射撃・見張りなどを担当する者)に区別する適性検査が行われた。
 ぺーパーによるテスト、いろいろの機械器具を使ってのテストが行われた。そのなかに通称「鳩ぽっぽ」と呼んでいた「地上操縦練習機」によるテストがあった。これがなかなかの難物でチョット油断していると急上昇・急降下をするし左右にクルクル回りだす、一定の方向で水平に保つのに苦労したものである。
 適性検査も終わりに近づいたころ、手相・人相占いが行われた。
 下士官待遇の易者(卵)に両方の手の平に謄写版のインクを塗られ、手首を握られて藁半紙に押し付けられた。くっきりと手形が出来た。 
 その紙を持って士官待遇の易者の前に座ると、机上には顔の輪郭を印刷した紙が置かれていて、ひとの顔を睨みつけては顔の輪郭を修正し、額のしわや目の形など次つぎに書き込んでゆく、たちまちお手配者の似顔絵が完成した。これをもとに操縦に向いているかどうかを占うのだと班長から聞かされた。
 科学的な発想をする帝国海軍がなぜ人相・手相占いに頼るのだろうと不思議に思ったものである。山本五十六連合艦隊司令長官が航空本部長をしていた頃、飛行機がよく墜落し幹部は頭を悩ましていた。
 山本の下で航空本部の教育課長をしていた大西滝次郎(特攻隊育ての親)の岳父の教え子に大学の歴史科を卒業して人相・手相見をしていた男があり、大西の口添えで霞ヶ浦航空隊のパイロットの技量を見させたところ87パーセントの的中率であったので、霞ヶ浦航空隊の副長は嘱託として採用し、飛行機乗り選考の参考にしたいと考え、大西にその旨伝えてきた。大西が海軍省人事局・軍務局に交渉したが、「帝国海軍がネエ、人相見とはネエ」と相手にしてもらえず、山本に話したところ、山本が部下の手相・人相を見させたらそのほとんどが的中していたので、山本の決断で嘱託に採用することが決まった。(阿川弘之著「山本五十六」)
 手相・人相占いが操縦に適すると出たのかどうか、操縦員に選出され、偵察員になった者から「操縦員は、操縦だけしたらいいが、偵察員は、通信、見張り、射撃、爆撃と一人で何役もしなければならない、単純で単細胞の奴が操縦に選ばれたがよ。単細胞。」と羨望を込めて言われたが、相手は、年が上だし、喧嘩も強そうだったので反論する事は止めた。5月1日には、海軍一等飛行兵に進級し、カッター訓練(腰の皮が破れ事業服が血に染まる程の猛訓練)などを始めとする猛訓練が始まった。
 第二の職場を逓信省に求め、善通寺町にあった「四国逓信講習所」で勉学に励んでいたある日曜日、終戦間もないころであったから、戦時中の思い出話に花が咲き、帝国海軍では、手相・人相見が行われていたと話すと、そんなものは当てになるかと云う者もあれば、当たると云う者もあり、ワイワイと話が弾んだ。
 そんならいっぺん占ってもらおうということになって友人五・六人が編隊を組んで、善通寺の境内で占いをしていた易者の門を敲いた。門を敲くと云っても門はない、バラック建ての薄汚れた障子を開けて、運勢を占ってもらいたい旨告げると、易者は手の平や顔をしげしげと見ていたがやがて「貴方は長生きをする。
 ただ、年を取ってから大病をする。」とのご託宣があった。友達がどんなご託宣を受けたかは、もう、忘却の彼方である。
 「病気はしそうにないき、短期共済金(健康保険に相当するもの)を払わんでもえいろう。」と厚生担当者をからかっていた四十半ばの頃、突然胸に痛みをおぼえ咳が出て空気が足らんような息苦しさに見舞われた。
 町医者に診てもらうと「妙におかしいき、結核予防会の診療所で診てもらいや」とのこと、渡されたレントゲンのフィルムをさげて予防会の診療所に行き、受付を済まし、待合室の椅子に座って待っていると、奥から車椅子を押した看護婦さんが名前を呼びながらやってきて、「これに乗れ」とのこと「乗らんでも歩けるぜ」と看護婦さんに誘導されて、お医者様の前に行くと、「自然気胸です。両肺にきたら命が危ない。」とのことで、県立中央病院の結核病棟に入院した。
 病床に伏せっていると、総婦長が病棟の婦長などを従えてやってきて、「自然気胸は若い痩せぎすな人が罹る病気やのに貴方がネエ。」と云うので、「二十歳ばあに若返ったろかねえ。」と笑い合った。一か月入院生活を送った。
 それから2年後、今度は、ネフローゼ症候群という病に倒れた。 
 六か月入院生活を余儀なくされ、ステロイドホルモンを服用し、その副作用で顔が満月のように真ん円になった。退院後三年間窓際族で過ごしたが、不思議に命永らえて満月の顔が次第に欠け半月になり、元の顔に返ったころ復職できた。
 定期健康診断のたび、逓信病院の健康管理部長から「ネフローゼと云う病気は、子供ならよく治るが、大人が罹ると危ないのに良く治ったものよ。」とからかわれていた。「幼がえりしたのでしょうかねえ、病気になったら小児科で診てもいます。」と口答えしていた。
 もうこれで大病に罹る厄は終わっただろうと思っていたら、二度あることは三度ある例え通り、また、大病にかかった。
 居酒屋「葉牡丹」で一杯ひっかけ、さあ帰ろうと堺町の陸橋を上がり始めたら、五段ぐらい上がると息苦しくなり、どうにも歩けない、しばらく階段に腰掛け呼吸を整えて上がるとまた息苦しくなる、登り切るのに三度ぐらい休まなければならない。飲み過ぎたろうかと思ったが、たったコップ酒三杯やにと不思議に思った。
 こんなことが四・五回続いた、ひょっとして前に宣告されている肺気腫が進行し空気が足らんなったがやないろうかと、大学病院の呼吸器科で診察を受けた。レントゲン写真を見ていた先生が「肺は正常だが、心臓が大きい。」と心臓専門の先生を呼んでくれた。心電図をとり、その先生の言うことには「心房細動です。すぐ入院して下さい。」と病室に拉致された。今度は年相応に老年病科の病室であった。
 ホルダー心電計を付け、ナースの管理下に置かれていた。トイレに行っていると看護婦さんが飛んでくる。洗面所で顔を洗っておれば看護婦さんが飛んでくる。そんな時、主治医の先生が「電気ショックをかければ、心房細動が収まる可能性がある。どうするか。」とお、っしゃるので「お任せします。」と答えると「それでは」と、胸に電極を貼り付け、麻酔の点滴をしているうちに、天国に一時呼び込まれ、蘇ると「今は不整脈は治まった。」とのこと、あとで聞くとスイッチを入れた瞬間、体がベットから十五センチぐらい飛び上ったそうである。
 三か月入院生活を送り、退院にあたり渡された退院後の療養計画という紙には「過度の飲酒の禁止」と書かれている。
 今は、不整脈防止の薬やら血液が固まらない薬などを飲みながら暮らしている。ただ、低血圧で時々目が回る、主治医から「ホームに立つときは、身長分後ろに下がって待つように。」と言われている。塩をなめてみるが一向に効果がない。
 こうして、我人生を振り返ってみると、善通寺の手相・人相見の予言が当たっていたと云えると思う。一病息災どれだけ長生きするか末恐ろしくなる。
 帝国海軍の手相・人相見の占いはどう出ていたろうか、善通寺の易者のように長生きすると出ていたのであろうか。今は知る由もない。
 算木・笠竹で占う易断は、霊感に頼るものであまり信用する気にはならないが、手相・人相見は統計学に基づいており科学的な根拠もあると思う。
 いずれにしても、占いを信ずるかどうかは、人それぞれの考えであろうが、「悪い予想が出ている、この印鑑を使えば救われる。」などの甘言に乗って、なけなしの年金を奪い取られることのないようにと願うこのごろである。