随想

 昭和61年春のことである。私は退職して満2年を過ぎたというのに、再就職もせず、「毎日が日曜日」を謳歌していた。とある日、当時の"高知県電電退職者の会"の会長をして居られた今は亡き大西正澄さんから電話がかかってきた。内容はこうである。「君は、再就職もせずに遊んでいるそうだが、"退職者の会"の役員(幹事)をやってくれんか。そして、囲碁愛好者のサークルを作って欲しい。実は四国の退職者組織で、それのないのは高知県だけなので、肩身の狭い思いをしているし、共済会からも是非にと言われている」というのである。特に断わる理由もなく、まして大先輩の頼みとあって、深く考えもせず即座にOKしてしまった。
 それから17年の歳月が流れ、その間世の中も、NTTも、そして退職者の会も随分と様変わりしてしまった。
 さて、こうして役員の末席を汚すこととなったが、大西会長の特命事項とも言うべき囲碁サークルの創設については、一向に進まず、あっという間に2年余が過ぎ去ってしまった。それは、最初に思った程容易ではなかった。様々な紆余曲折を経た後、何とか発足に漕ぎつけることが出来たのは、昭和63年の秋であった。その時点で任務を完了した、との認識で大西会長に幹事退任を申し出たが、勿論許される筈もなかった。此の時も、私の優柔不断な性格が禍して?何となく断り切れなかった。そしてそれから17年間も経過し、しかもその後副会長の重責まで担うことになるとは予想もしなかった。
 ところで、当時の"高知県電電退職者の会"のスタッフは、大西会長以下副会長は山下道雄さんと井上広次さん、事務局長は安藤保さん、そして幹事10名程で構成されていた。時に57歳の私は、断トツの最年少で、役員会のときは、常に隅っこで黙って坐るだけだったことを思い出す。今は故人となった国弘恒好さんから「おまんはまだ若い衆みたいなもんじゃいか。遊びよってどうするぜよ。働かいでいくか」とのキッイお言葉を再三頂戴して、ムッとしたのも今は懐かしい。何しろ当時の幹事は、前述の国弘さんを始め、鍵山進さん、小松俊美さん、青木保さん等大先輩ばかりであった。(注、前述の人達は全て故人となっている)従って、此の人達にとっては、私はほんの若い衆に思えたかも知れない。ところが、今や我が電友会の執行部では、最高齢者となってしまった。誠に感慨一入の感がある。
 やはり、17年間は長かったの一語に尽きるが、その反面、電友会特有のNTTの人達や、仲間達との心地好い連帯感が、さ程長さを感じさせなかった様な気もする。しかし、最近しきりに17年前を思い出すのは、やはり、好むと好まざるとに拘らず、知力、体力の衰えを感じている証拠かも知れない。
 いずれにしても、私が執行部入りをした当時の"高知県電電退職者の会"はその後"高知電友会"と改称しただけでなく、規模も中味も大きく様変わりした。
 平成3年には、それ迄全国的には、緩やかな連合体であった退職者の組織を「電友会」という名のもとに統一した組織として確立し、今や会員数も10万になんなんとする大所帯に発展した。そして、今後はその果たすべき役割も、色々な意味で益々大きくなっていくに違いない。従って、様々な障害をクリアーして組織の運営を確かなものとし、活性化していかなくてはならない。その為には、執行部へ若い力を導入し、新しい息吹きを育てていく為の力強いリーダーの出現が期待される。私如き老兵で、時代遅れの人間には、そろそろ限界が見えて来たような気がする。これが、私が自らの17年間を顧みた結果の偽らざる心境である。