随想
へんろみち保存
   協力会会員
 時として遍路道でよく見かける道標に「中務茂兵衛義教」建立の遍路石がある。彼は瀬戸内海に横たわる周防国(山口県)大島郡椋野村の出身で、幕末・明治・大正にかけて56年間に、四国八十八カ所霊場を280回も巡拝した超先達で、しかも四国中に220基もの道標を建立した空前絶後の遍路である。
 弘化四年(1847)庄屋の次男として生まれ何不自由なく育ったが、19歳の時に突然村を出奔して四国遍路の旅に出た。
 以来、大正11年に高松で78歳の生涯を終えるまで、ただの一度として故郷に帰らなかったという。
 行く先々では"生き仏"と慕われ、茂兵衛の着ていた白衣と新しい白衣を交換する希望者が絶えず、常に新しい白衣をまとっていたという。
 また村を出てから半年後には母ヲフミが死去したにも拘らず帰省せず、ひたすら信心一筋に遍路を続けた。なぜにこれ程までに四国遍路の旅を決意したのか。その動機は何であったか。四国遍路の書物をあさってみたが確たるものがない。やれ幕末の混乱期に嫌気を起こしたとか、はたまた好きな村娘との結婚を許されず放蕩の果てに出奔したとか。いずれにせよ何か強い信念をもっての行動であったに違いないが、今もってその真意は分かっていない。
 私は一度、茂兵衛の墓所を訪ね、そして彼の何かを掴みたい気持から平成4年10月、一人で彼の眠る周防大島に渡ってみた。
 椋野という小さな集落の中の小高い丘を半日がかりでさ迷った末、やっとのことで茂兵衛の墓石を突き止めることができた。笠と杖と草鞋で果てしなき信仰を求め、四国の幾山河を越え巡った茂兵衛に思いを馳せ香を供えて感謝の祈りを捧げた。
 茂兵衛の残した有名な歌に「生まれきて残れるものとて石ばかり我が身は消えし昔なりけり」彼は今も故郷の丘で、父母の墓の間に挟まれて安らかに眠っている。

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 今年の五月頃であったか、高知新聞の地域紙面に「"石の医師"おらんかね」と酒落た見出しの記事が載っていた。南国市下末松の通称 "へんろ石" の道端に建つ明治30年建立の古い遍路石のことであった。
 この遍路石は30年ほど前に交通事故に遭い、四つに割れてギプスを巻いた満身創痍の痛々しい姿のまま四国遍路の道案内を続けているというもので、道路向かいにある老舗の「へんろ饅頭屋」の方がこれを修復する業者を捜している記事であった。
ギブスを巻いた遍路石

 私が最初にこの道標に出会ったのは昭和62年11月、第一回目の徒歩遍路のときであった。店の前の一角に大きな樟が繁り、その下に小さな祠と一緒に、電柱に凭れかかるように建っていた。刻字の損傷がひどく全文字を拾うことはできなかったが、残る刻字を見る限り建立したのは明治30年で、施主は川口半平、願主は中務茂兵衛義教の157回目巡拝の時であることが読みとれた。

明治三十  天東本□□
八月吉辰    世話人 川口半平
壱百五十七□□供養建立
周防國大島郡椋野村 中務茂兵衛義教

 私は新聞記事を読んで、この道標の顛末が気になっていたところ、続いて去る9月23日付の高知新聞に善意の石材業者の手で蘇った記事が再び載っていた。翌日、早速現地に飛んで行って見ると窮屈だったギプスは外れ、四つに割れていた石は特殊な接着剤で固められて立派に蘇り、台座の上にデンと座った姿はこれまでよりも一回り大きく見えた。
 私は安堵のあまり道標に駆け寄り、何度も撫でながら開眼供養とともに、匿名を約して去ったという石材業者に感謝の手を合わせた。
りっばに蘇った遍路石

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この"へんろ石"から北へ1キロ足らずのところに、もう一つ数奇な運命を辿った遍路石がある。
 のどかな田園地帯を流れる国分川を渡ると、左前方に次の札所・国分寺の森が見えてくる。県道から寺へ左折する分岐路に古い遍路石が建っていた。
 この道標はなぜか上半分だけで、下半分はコンクリートで継ぎ足されている。おそらく廃れゆく運命にあったものを信仰心の厚い誰かが建ててくれたものでしょう。
 それよりもここを訪れる遍路たちには足の不自由な方もいて、引きずる足でやっと辿り着いたとき、この義肢を付けたような道標は無言の励ましを投げかけてきたであろう。そんな思いのする遍路石であった。
 私はいつかこの道標の上半分の二面に残った刻字を指でなぞりながら収録したことがあるが、偶然とはいえ前述の"へんろ石一の道標と同じ時期に中務茂兵街が建立したものと解った。

一百五十七度目建 国
周防国大島郡□□ 
願主 中務茂兵衛   寺
  大
右日 明治三十
  寺

 ところが平成4年4月、三巡目の春遍路でやって来たときのことである。ここに国分寺へ向かう車の待避所ができ、工事でこの石はいつの間かどこかへ消えていた。
 ある日、この石の行方が気になってその周辺を捜しに行ってみた。すると何気なく待避所の西側に目をやると、無残にも田圃の溝に頭から突っ込むようにして例の石が投げ捨てられていた。驚いて田圃に駈け降り持ち上げようとしたが、とてもとても私の力ではかないませんでした。
 私は当時の南国市長さん宛に放置された状態の写真を添えた嘆願書を送り復元をお願いした。
それから10ケ月ほど経った平成5年2月、一縷の望みをかけて現地へ行ってみた。しかし、遍路石は復元されてないばかりか、その辺り一帯は道路拡張工事の真最中で、道標は10メートルほど離れた場所に二つに折れたまま放置されていた。しかし、私は「工事が終われば、きっと復元してくれるに違いない」そう信じて引き揚げた。
 そして5月、再びここに来てみると、寺までの道路は立派に拡張され、例の道標はもと通りに復元されていた。私は感激のあまり思わず駆け寄り、「よかつた、よかった。」と一年ぶりに蘇った石を撫でながらひとり呟いた。そして、まほろばの里で知られる南国市は、やはりこの小さな文化遺産でも見捨てていなかったことへの感謝の気持を遍路石に託し帰路についた。

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 私が遍路石に魅入られ始めたのは今から15年ほど前である。喧噪とも言える今の交通事情の傍らに残された遍路石のひとつ一つが、長い間巡礼者の道案内となって来たその使命もさることながら、昔時の不便を克服して要所要所に建てて行かれた奇特な方たちの「さざれ石」にこめられた光を探ってみたい気持ちに駆り立てられたからである。
 心のふるさとである遍路道を歩いていると、長い歴史を刻んだ貴重な遍路石とたびたび出会う。一方、埋没撤去の憂き目に遭ったものや、道路事情の変化で忘れ去られようとしているものも数多い。せめて現存する道標を日本人の民族文化研究のための遺産としても、ぜひ大切に残しておきたいものである。