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H26.12.10 高知電友会 |
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歴史は面白かろう!
『本能寺の変と長宗我部元親』 |
高知県立歴史民俗資料館 顧問
講師:宅間 一之氏 |
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年末恒例となった高知電友会の第14回文化講演会 (NTT労組退職者の会と共催) を、12月10日に高知商工会館で開催し、84名の参加者が興味深いお諸に耳を傾けました。
講師は長宗我部氏の居城跡に建つ県立歴史民俗資料館(南国市岡豊町) の元館長宅間一之先生です。.先生は長年にわたり県立高校の教壇に立ち、私立短大教授を経て同館館長を務めました。現在は同館顧問として活躍しておられ、県内の歴史に関する書籍も多数出版されています。
演題はNHK大河ドラマでも触れられて関心が高まっている『本能寺の変と長宗我部元親』。
多岐にわたった先生のお吉のうち、耳に残った幾つかを紹介します。
◇ 高知市長浜の若宮八幡宮に、元親27才の初陣の像が有り、凛々しい立ち姿は若き暦女運にも大人気です。八幡宮で戦勝を祈念し本山氏と戦い、見事初陣を飾った地に立っています。
張り合うわけではありませんが、本拠地であつた岡豊山の歴史民俗資料館に元親の銅像を建てようと、地元岡豊の方々を中心に計画が進んでおり、(平成27年) 5月3日に落成予定です。
豊臣方について大坂夏の陣で敗れた盛親が六条河原で処刑され、長宗我部氏が滅亡した四百年目に当ります。滅亡四百年記念とは言えないので、「長宗我部氏再生をめざして銅像を建てる」と言っています。
等身大の像を、高い台座ではなく60センチの台座に建てるので、一緒に並んで写真を撮る事ができます。目の前に像が有るので、鎧の細部など細かい所もごまかしが利かず、時代考証に沿った精微なものを作ります。
元親が土佐を統一して四国へ進出していこうとする37才の像ですが、「草刈正雄の若い頃をイメージした原形に」と注文しており、長浜の像に負けず若い女性にも人気になるはずです。
等身大と謳っていますが一次史料がないため、元親の長男信親の身長六尺一寸を参考にしています。
◇一般的に戦の勝者の史料はたくさん有るが、敗者の史料は殆ど残されておらず、元親についても同様に実像はあまり知られていません。ことに大坂夏の陣に敗れ滅亡した長宗我部氏は、元曲桝活躍当時の手紙など一次史料は殆どありません。元親を研究する材料は、没後百年〜百五十年を経て伝聞や伝承に基づいて書かれた 「土佐物語」 などの不確かな二次史料に頼るしかなかったのです。「土佐物語」 の筆者にしても長宗我部氏家臣の子孫であり、そこにはいくぼくかの誇大表記が有るだろうと思われます。
皆さんが習った日本史では、元親が本能寺の変に噛んでいるなどと書いてなかったでしょう。
ところが元親に関する記載のある手紙などの一次資料がボツボツ出てくるようになり、本能寺の変のきっかけに元親が絡んでいるのではないかと言われ出しました。
天正八年、元親が送った使者に対して、織田信長は「四国の地、元親の手柄次第」とお墨付きを与えました。しかし同十年、信長は「元山親に土佐と阿波半国しか認めず」と前言を翻しました。元親は当然激怒し、仲をもっていた明智光秀は顔を潰されたのです。元親への州関心が非常に高まってきました、中世の日本史が書き変えられようとしています。
土佐物語など二次史料により、元親が四国統一を果たしたとされてきましたが、完全平定はできていません。そのような兵力を持っていたのだろうか、交通が整備されていない当時に四国山脈を越えて充分な兵たん補給ができたのだをうかなど、研究課題があります。
◇ 元親は戦よりも調略に長けていたとされています。妻は室町幕府足利氏につながる石谷氏から迎えています。その石谷氏は妻の姉に織田信長・明智光秀につながる斉藤利三の長兄を婿養子に迎えています。当時の地方豪族の多くほ、近隣豪族との婚姻関係で勢力拡大を図っていた時代に、元親は四国平定に向け、このように上方との関係を重視していたのです。
◇ 土佐二十四万石などと言われる 石″ は、収穫高ではなく耕地面積を表しており、一反=一石で換算されます。山内氏が土佐に入国した際の石高が、現在言われている二十四万石ではなく、実は九万八千石だったと史料で判ってきました。元親の兵役負担が三千人だったことから、これを石高にすれば九万八千石 (太閤検地で長宗我部氏が申告) であり、妥当な数字といえます。
山内氏入国後、見栄もあって二十万二千六百石余と届け直していますが、諸事負担が増加することにもなりました。
他藩大名と競うために、さらに増石を申し出たが、「そんなにせいでもえいやいか」 と、認められなかったとの詰もあります。
その後新田開発などによって実際の石高はさらに大きく増えていますが、実測されていないので正確なところはわかりません。
◇ 「歴史は面白かろう!」と締め括られましたが、紙面では上手くお伝えできないことが残念です。
(大野文平 記) |
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