高知電友会(NTT労組退職者の会共催)の第16回文化講演会を12月7日高知商工会館にて開催し、86名の会員が参加し、龍馬伝でも一躍有名になった岩崎彌太郎さんの話に熱心に耳をかたむけました。
講師には我々電友会の仲間でもあり、地元安芸市で観光ボランティアガイドとして9年の長きにわたり大活躍するとともに、安芸地区のNTTOB会の中心としても多方面で地域に大いに貢献している、曽我純司さんにお願いしました。
当日は観光ガイドの制服「真赤なブレザーに帽子」姿で現れ、ユーモアたっぷり、内容たっぷりで講演していただきました。
お話の一部を紹介させていただきます。
三菱4代とは、岩崎彌太郎・岩崎彌之助・岩崎久彌・岩崎小彌太の4人である。
1. 岩崎彌太郎(三菱初代社長)
幕末の激動の中、武士から実業家に転身し、三菱を創始した男である。
彌太郎は天保5年(1835年)土佐国安芸郡井ノ口村の貧しい家に生まれる。家紋は甲斐武田の末裔とされる「三階菱」、三菱マークの原型となる。
三菱の事業の源となる九十九(つくも)商会は、明治3年(1870年)に開設。明治4年(1871年)には廃藩置県により藩史の職を辞して彌太郎自ら経営することになる。実業家彌太郎の誕生である。
明治6年には「三菱商会」と改称し、翌7年には「三菱蒸汽船会社」とし社長を名乗る。
実業家として大きな財を為すまでになって行くのである。
しかし、三菱独占に対抗し海運会社を設立するべしと、渋沢栄一や井上馨が画策。
政府の出資を核に、三井など反三菱勢力が結集し、明治15年共同運輸会社が誕生。三菱会社との競争となる。
そんな中、彌太郎は病に侵され18年2月胃癌で亡くなる、享年51歳。
だが、弟の彌之助がすかさず三菱を継いだ。2代目の誕生である。
《その年の9月、三菱・共同運輸は合併「日本郵船」が発足することとなる。》
2.岩崎彌之助(彌太郎の弟・二代目社長)
兄・彌太郎の亡きあと、彌之助ならではのやり方で事業の多角化をはかり、今日の三菱グループの基礎を築いていく。
岩崎家の事業であった吉岡鉱山、高島炭坑のほか、第百十九国立銀行、千川水道、長崎造船所などを三菱の本業として発展させていった。
その他、倉庫業、我が国初の損害保険会社(東京海上火災保険)、明治生命、信託会社など多角経営を推し進めていく。
のちの三菱造船・三菱商事・三菱銀行・三菱重工業などの基礎を築いた。
3.岩崎久彌(彌太郎長男・三代目社長)
叔父の岩崎彌之助が三菱社を三菱合資会社に改組した後、その社長に28歳の若さで就任した。
久彌は日本の近代産業の勃興と発展の時期だった明治から大正にかけての22余年に事業の多角化をすすめ各部への権限の移譲を行うなど、父・彌太郎のワンマン会社経営体質から近代的マネジメント・システムへの脱皮を実現した。
また、明治40年「麒麟麦酒株式会社」(のちのキリンビール)を設立した。
大正5年(1916年)51歳で信頼する従弟の小彌太に社長の座を譲り、若い頃から心惹かれていた農牧の道に進んだ。
4.岩崎小彌太(彌之助長男・四代目社長)
小彌太は37歳で三菱合資会社社長に就任し、その後の数年間で三菱グループの基礎を築いた。
会社の各事業部門を独立の株式会社に分離し、本社は持ち株会社として統括することとした。
また、丸の内のシンボルだった旧・丸ビルは、小彌太の決断によって建てられたものであり、丸の内ビジネス・センターの発展のきっかけとなったのである。
文化人としての功績は、山田耕筰(赤とんぼ)のドイツ留学援助、帰国後の音楽活動を支援した。また、日本最初の本格的な民間管弦楽団となる東京フィルハーモニー会を組織したり、音楽を好み、絵画・陶磁器を愛し俳句を詠む文化人でもあった。文化的支援の最大のものは「静嘉堂文庫」であり、古典籍、古美術品など国宝、重要文化財が現在、静嘉堂美術館に収蔵されている。
大正から昭和初期までの激動の約28年間に三菱グループの企業理念を確立させていった。
昭和20年10月体調を崩し、12月66歳で亡くなった。
以上、岩崎家系図等のスライドを見ながらの説明に、著名人の多さに驚きながら、また、曽我さんの天文学的な記憶力の良さに驚きながら貴重なお話を聞くことが出来ました。本当にありがとうございました。
(高橋慶子 記)