喫茶店の入り口に立つ若者が「10人ですが大丈夫ですか?」と聞きます。
せっかく来てくれたのですからお断りすることもできず密にならないように四つの席に分かれていただくということでご了解いただきました。
店内のあちこちには消毒液、おしぼりも使い捨ての紙おしぼりになり、今はみんながマスクをしています。
平成十五年に49歳で退職してから家業の自家焙煎喫茶を手伝い18年目になります。
嫁に来たころは夫の両親と兄弟が年中無休で夜の10時まで交代でやっていましたが現在は夫婦二人になり定休日を火曜日に決め、夕方の7時には店を閉めています。
また今年のお正月はコロナで帰省客も減り開店以来初めて休業しました。
おかしいもので休みとなると早く目が覚め近くにある高校の丘の上から東の山並の空を染めて昇る初日の出に手を合わせました。
窪川の冬の寒さは厳しいですが、私はこの丘の傾(なだ)りに降りた霜が日を受けて輝き始める氷点下の朝が好きです。
店は昭和三十九年、前回の東京オリンピックの年に「歳がいってもできる商売」ということで先代の父が、三十七番札所岩本寺の門前通りに開店しました。
向かいは羊羹パンが人気のベーカリー、隣りは地物の豆腐や野菜がならぶ青果店、斜め向かいはともに50年以上続いているコーヒーショップで、この辺りは昭和のままに残っています。
また門前の和菓子屋は三代目、少し下ると明治から続く老舗旅館の六代目がそれぞれ古い町並に合った店舗や別館をオープンして若い後継者も頑張っています。
またこの辺りは戦後まで大きな料亭が何軒が残っている花街でした。
古いお客さんは子供の頃の夕暮れの町の賑わいや、前を行く芸者さんのお化粧の匂いなどを懐かしそうに話されます。
喫茶店の外観は蔦におおわれ銭湯のように入り口がふたつあります。
店を始めた当時はまだコーヒーを飲むお客さんは男性が中心で片方の入り口はコーヒールーム、もうひとつの入口は女性客用にぜんざいやお団子、ちらし寿司などを出す座敷席でふたつの入口はその頃の名残です。
店内には古い物が雑然と置かれ、ひとことで言うとオンボロ喫茶ですが、若い人たちは「超カワイイ」とか「オシャレ」と言いながらスマホやカメラを持って店内を巡り、テーブルに置かれた昔のままの容器に入ったプリンやクリームソーダの写真を撮っています。
年輩のお客さんはジェームス・ディーンのパネルの前に置かれた「想い出ノート」を開きウィンナーコーヒーを懐かしそうに飲まれています。
ウィンナーコーヒーは泡立てた生クリームを砂糖入りコーヒーに浮かせたものでウィーン風のコーヒーです。
またコロナが流行する前は海外からのお客さんも増えていました。
壁に張られた父の手書きのメニューにスマホをかざし、お国の言葉に変換して注文してくれます。
便利な世の中になったものだと感心します。
私は主にカウンターの外まわりと裏の倉庫に置かれた5キロ窯でブレンド用のコーヒーを焙煎しています。
倉庫には生豆を入れた麻袋や煤をかぶった道具などが所狭しと置かれて、子供の頃に菰(こも)を編む祖父母と過ごした納屋を思い出し気持ちが落ち着き、窯と向かい合い焙煎する時間が好きです。
種類ごとに3キロの豆を投入して火力、時計、温度計を見ながら煎り止めるまでに23分ほどをかけます。
そして次の豆を投入するまでに窯の温度を再び250度まで高めるので一回ごとの焙煎にだいたい40分位かかります。
この作業を4〜5回繰り返します。
倉庫の夏の暑さは特別で脱水にならないように水を飲み、自家製の梅干しをかじりながらの作業です。
それでも私はクーラーの効いた店に居るより裏の倉庫で焙煎する方が好きです。
コーヒー豆は180度を過ぎたあたりから甘い香りが漂い始め、香りにつられて蝶や蜂が飛んできます。
そして段々温度が高くなるにつれてコーヒー独特の苦みのある香りに変ってゆきます。
オリジナルブレンドは中深煎りでジャーマンローストとも言います。
一番の深煎りはイタリアンロースト、浅く煎るのがアメリカンローストで、豆の種類や配合も異なります。
「お湯を入れたらアメリカン」は誤りです。
このようにコーヒーの香りに包まれながら日々を過ごしています。
「歳がいってもできる商売」と父が始めた喫茶店も私たちも古びてきました。
また二度目の東京オリンピックの年までは頑張ろうとやってきた思いにもひと区切りがつきました。
先のことは分かりませんが、これからは「おまけ」と思いボチボチやってゆきたいです。
・・・・・・
ゆったりとした時間の中でお客様とコーヒーの香りに包まれた生活の様子が伺え、うらやましく思います。
喫茶店の名前は「淳」です。
一方、皆さんご存知のとおり川上さんは高知県の短歌の世界では名前の知られた人で、高知新聞文芸欄の「歌壇」への投稿や電友会会報へも毎回投稿して下さっています。
昨年の春には「第44回高知県短詩型文学賞(短歌部門)」を受賞されました。
短歌の世界に入るきっかけは中学生のときに出会った志貴皇子の〈石走る垂水の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも〉という万葉集の歌を学び、1200年以上も前から自分の生まれた国にこのような美しい調べがあり、自然を愛する人の心は昔も今も変わらないなと、強く感銘を受けたことによるそうです。
以来、社会人となってからも通勤列車の時間を利用して文庫本の百人一首を暗唱するなど勉強を続けてきました。
平成28年春には「第17回 NHK全国短歌大会」で一般の部(投稿数22,646首)の特選42首に選ばれ、大会の模様はNHKEテレで放送されました。
現在は黒潮町の大方文学学級の短歌会で学びながら活動を続けておられます。
これからもお元気でお店と短歌を続けていっていただきたいと思います。
(松丸 純二)
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