高知電友会50周年のおもいで話
 歴代会長のおもいで話
わが人生を振り返って  高知電友会50周年おめでとうございます。
 私は昭和60年から副会長を6年勤めた後、平成3年に会長に就任し最善を尽くしたいと決意しましたが、病気にかかり会長職1年で引かさせていただき少し心残りでしたが、後を野村大蔵さんに引き継ぎほっとしたことを思い出します。 高知電友会には、90歳を過ぎて毎年敬老の日にプレゼントをいただき感謝しております。また四半期毎に送られてくる電友会会報は楽しく読んでおります。先般の会報で90歳代の方々のお名前を拝見し懐かしく思い出すとともに、高知電友会で4番目の年になったんだと感慨にひたっております。体調を少しくずしておりますが、妻満稲恵の助けを借りながらリハビリに励んで元気を取り戻したいと思っている状況です。
 私は、16歳の年に奈良の三輪郵便局で採用され、後免郵便局に帰り、その後高知の電電公社等で営業関係の仕事を中心に勤めてきました。
 八幡浜と小松島以外はほとんど高知県内で先輩、同僚の皆様に支えられ楽しく仕事をさせていただきました。局長としても室戸・小松島・安芸を歴任させていただき感謝の極みです。
 電電公社卒業後も当時の移動通信(現在NTTドコモ)でポケットベルの仕事に携わり通信事業一筋自分なりに精一杯頑張ってまいりました。
 ただ、私の人生の中で室戸が特に思い出の多いところで、社員による交通死亡事故については、痛恨の極みでした。
 辞表を懐に通信局長にお会いしましたが、遺族の皆様への対応等事故処理をしっかりしなさいと辞表を返され、その後、社員の皆様と墓参りや遺族の皆さんへの誠心誠意の対応を行い、「気持ちは通じた」といっていただいた時は、涙がでました。
 また室戸では社員の皆さんから魚釣りに誘っていただき、坊主の時も大きな魚をいただき、妻の料理で社員の皆さんと胸襟を開いて語り合ったことが思い出されます。
 私は相撲が好きで、室戸市で開かれた相撲大会に局長杯を贈呈したりして地元にとけこむよう努力もしました。
 その他の勤務地でも多くの人との出会いがあり、電友会報での近況報告を読みながら昔の思い出に浸っております。
 電友会の会員の皆様には、ご自愛いただきご健勝な日々をおくっていただきますよう祈っております。
平成3年度
会長


山下道雄
(高知市)

第186号掲載
[おもいで話]

電友会発足五〇周年に寄せて 高知電友会が発足してから五〇年になるとか、長く続いたことをまずもってお喜び申し上げます。
 中西会長から電友会にまつわる思い出を書いて欲しいとのことですので、思いつくまま書いてみます。
 「半生の記」(私たちの小さな歴史)発行
 戦後五〇年の節目の時に当り原稿を募集したところ30名の方々からの応募があり、四六版110ぺージの小冊子を発刊しました。
 「戦いの記」に始まり、「電信の記」「電話の記」「災害の記」と続き「その他の記」で終わっております。
 それぞれの記述は、それぞれの分野での体験を、時にはユーモアを交えて細かに述べられておりますから、読者をその時代に誘うことと思います。
 県立・市立図書館に寄贈してありますから、末永く手にすることが出来ると思います。
 「親睦旅行の実施」
 会員相互の親睦を深めるには、旅行に行き寝食を共にするのがよかろうと思い、「カニすき食って温泉に入ろう」と銘打って松江温泉一泊の旅を計画し、会員の募集をしたが、なかなか参加者が集まらず苦労した。
 終わってみるとなかなかの好評で今日まで続いている。来年は何処へ行こうかと考えていたら「退職者の会」の会長がやってきて「おまんくが旅行を始めたき、わしんくも旅行を始める」と言ってきた。
 「どうぞ」と答えておいたが、その旅行が終わったら、「ようけ参加者が集まった、電友会の二倍は集まったぜよ。」と自慢しにきた。他県の電友会でも旅行を始めた。
 「文化講演会の継承」
 テルウェルが主催して毎年「文化講演会」を開催してくれていたが、テルウェルの再編成により、来年から廃止するとの通告を受けた。
 なんとか続けることはできないかといろいろ考えたが、講演者への謝礼など電友会だけで負担するのは苦しいと思い「退職者の会」の会長に「こうこうだが来年からは、共催して継続したらどうかと思う、謝礼金を半分負担してくれないか」と相談したら「OK」との返事を得たので、共催という形で継続することが出来た。文化講演会を継続したのは高知だけである。
 紙面の制約もあり詳しく記述することは出来ないが、「高知電友会」が他県の電友会に先駆けて実施したことには次のようなことがある。
 「会報に広告の掲載」従来NTTだけの広告を掲載していたが財政ひっ迫の折から門戸を広げることとした。「きずな高知」「ドコモショップ」の賛同を得、感謝している。
 「高知電友会OBネットの結成」
 NTTからインターネットの普及に協力してほしいとの要請を受けて、「OBネット」を結成して普及に貢献することとした。
 献身的に協力してくれる会員があり、ホームページも立ち上げてくれ全国的に好評を得ている。
 「NTTプラザ」が閉館されることとなり、従業員の長年の苦労に感謝する会を開催し、記念品を贈り慰労した。
 「えへんえへん」
 「自由は土佐の山間より出づ」と言うが、「電友会の新施策も土佐の山間より出づぜよ」と自負している。
 高知電友会の益々のご発展と会員皆様のご健康を祈念いたします。 
平成8〜15年度
会長


楠瀬邦夫
(高知市)

第186号掲載
[おもいで話]

電友会のおもいで   平成一六年正月、お屠蘇気分も抜けやらぬ午前。電友会美女数名が我が家にやってくるという。女性には縁が薄い私に急用があるとは、ただ事ならぬと、半分恐ろしくもあり、期待もこれあり複雑な気分で待っていた。
 自宅に入れきれない人数となったので近くの喫茶へ場所を変えた。円熟女性に囲まれると悪い気はしないが、そこに「落とし穴」があった。
 「高知電友会会長を引き受けなさい」と命令して潮が引くように引き揚げてしまった。 これが会長をお受けする瞬間であった。
 楠瀬会長が4期8年間ご苦労されているのに何かお手伝いすることはないかと思っていたが、まさか自分がその役になるとは思いもしなかった。後で楠瀬会長に聞いてみると彼の作戦であったらしい。
 高知電友会は、高知県内800名をこえる大所帯である。大きな責任がある。
 お受けするからには楽しくやりたい。そこで自分の大好きな「ゴルフサークル」の立ち上げからのスタートである。世話をしてくれる人には事欠かない。
 早速第一回コンペの開催にこぎつけた。もう何回目になるだろう。
 次はボーリングである、これは毎月開催しているが「ハチキン」が上位を占めるので面白い。
 ゴルフもボーリングも結果がすぐに「HP」で発表されるので欠席者にも様子がよくわかる。
 電友会が毎年楽しみにしているのが「旅行」である。何年も「電友会」のみで開催していたが同じ事を「退職者の会」もやっている。
 一番困ったのは行き先である。全国の観光地は個人でも行った事があり中々うまく決まらない。
 或る年、退職者の会と合同で開催してはどうかと素晴らしい意見が出て、そうよ、皆NTTの同じ釜の飯を食った人間ばかりではないかと、ある年、奈良へ行った。
 修学旅行専門のホテルのようであったが宴会が始まると酒が間に合わない。酒の問題はどこへ旅しても言われ放しであった。「良く飲む団体よ・・・」と。
 この合同旅行については、当時の退職者の会の責任者の太っ腹に感謝している。
 さかのぼれば平成11年ころは電友会でも「IT」立ち上げの機運が活発であった。
 高知では立ち上げるなら四国同時が良いと、当時の電友会四国地方本部の安部副会長に再々お出ましを願って討議したが四県同時には足並みが揃わなかった。
 楠瀬会長の鶴の一声で高知だけでスタートすることになった。名付けて「高知電友会OBネット」わずか17名での愛好者であったが、今では100名を越える組織となりMLを結成して全員に配信され、盛況である。HPは10月末で10万回を超えるアクセスとなり電友会本部から表彰をもらったこともある。
 これは「IT」専担の廣江氏の力量に負うところが大きい。
 会長をお受けして一番嬉しかった事は二期目に入る時であった。
 私はやり残した仕事もあり続投を宣言したところ、副会長以下幹事全員がその場で賛同してくれた事を思い出す。
 こんな嬉しい気分になった事はなかった。夜のお酒が進んだ事は言うに及ばず。
 4年もやると高齢化が進み、なにをやっても疲労が気になりだした。
そこへ最適任者が現れた。生きのいい中西さんである。
 人物といいキャリアといい打ってつけである。簡単には受けてもらえなかったが、最後は快諾してくれ立派な後任となった。
 彼はアイデアに富み、電友会の活動にも活気があふれている。
 23年10月高知電友会事務所が、東局へ移転した。この新しい事務所を拠点に有能な人材が集まって大いに発展することを期待している。

平成16〜19年度
会長



徳廣孝敏 
(高知市)

第186号掲載
  [おもいで話]

ホームページにまつわる思い出話 
 ホームページヨチヨチ八年   『ホームページを作りましょうか?』 『おー、作ってくれ」。
 平成12年夏も終わりの頃のことであった。
 高知電友会OBネットの役員会の後、当時の会長楠瀬邦夫先輩と"なおらえ"の会場「葉牡丹」へ向かって肩を並べて帯屋町を歩いていたときの話である。 いや、もしかすると会長が入院されたときお見舞いに行った病室で交わした話かもしれない。
 もう十数年昔のことで、健忘症はなはだしい私の記憶では定かではないが、ともかくこんな話で、高知電友会のホームページを担当することになった。
 当時、NTTでは、フレッツADSLが高知に開通(十月六日)し、高速インターネットの普及・発展に力を注いでいた。
 高知電友会でも、OBネットを立ち上げ、会員の啓発を図って、NTTの事業発展に協力する活動を展開していた。
 こうした時代の流れもあり、また、入社以来お世話のかけっぱなしであった先輩の手助けにでもなればという思いで申し出たわけである。
 編集の方針はOBネットの役員会にはかり、四半期毎に発行されている「高知電友会報」誌をベースに、会員が参加できる「皆さんの広場」のようなぺージを作ってはという、こ提案をいただいた。
 ここで、現在まで続いている『高知電友会報』Web版、『皆んなの広場』という二本立ての形ができた。
 平成十三年の一月からスタートということで準備をはじめた。
 新年号がスタートであったので、ネットで年賀というぺージを企画してみた。  OBネットの役員さんや会員さんの、意匠を凝らした年賀状を写真にして掲載しょうというものである。
 初めての原稿依頼、お願いしてあった方全員の年賀状が集まったとき、ホッとするとともにご協力くださった方々への感謝の念が込み上げてきた。
 実を言うと、ホームページ制作の経験は全くなかったのである。パソコンおたくを密かに自認し、いずれはホームページをと思っていた私は、ネタと編集用のソフトさえあれば見よう見まねでなんとかなるだろうという考えであった。
 今思えば無謀な話ではあったが、これで弾みがついた。ヨチヨチ歩きの始まりである。
 そのほかの予定稿も揃い、12月にテストアップ。試作OKで、平成13年1月に本実施となった。
 時期もよし、会報にはNTT高知支店長と会長の新春対談もあり、華やかな新年号でスタートできたことも幸いであった。
 爾来、十余年が経った。二年前、私もいずれは仇惚の境に入るであろうと思い、大須賀英男さんに後を託したので私が担当したのは八年余りであった。
 この間、本当にたくさんの方々に投稿をいただき、支援していただいた。
 二・三日に一度は更新しなければならないほどの原稿が引きもきらず集まってきた。
 殊に「皆んなの作品集」の四季の花や風景風物の写真、陶芸や木彫り、創作人形など。「ネットヘの便り」では、行事や旅行記など、記事に沢山の写真を添えて送られてきた。
 四部に分けないと掲載できないほどの長文の原稿もぺージ建てや背景、見出しのロゴ作り、デザインなど。編集にとりかかると没頭して、仕上がりが楽しみなものである。
 また、展示会や作品の個展を開いた方からご案内をいただいたりした。
 有難いニュースソースで、時期を失せず取材できるし、皆さんの作品に生で接する機会を楽しませてもらえた。
 こうしたことは、多くの方々がいつもホームページヘの投稿を念頭に置いていてくれた証しだと思っている。
 ホームページを更新するとき、長期間掲載していたものは削除する。
 しかし、皆さんがご協力・支援してくれた原稿を捨ててしまうには忍びないという思いで、「バックナンバi編」を作って転載していたが、そのぺージも満杯になり、最近遂に削除の羽目に至った。
 古いパソコンがクラッシュして、デー夕ーが消えてしまったので、どれだけの投稿をいただいたのか件数がわからないのが残念であるが、ともかく膨大な量であったことには間違いない。 感謝感謝である。
 この原稿を頼まれたとき「ホームペ!ジにまつわる話、苦労話など・・』と言われたが、本心、苦労と思ったことはなかった。
 原稿がなくて、ネタ探しをしたり、企画を考えなおしたり、原稿依頼で頭を悩ましていれば苦労だらけであったろうが、原稿の心配は全くなかったし、頻繁に更新できることが有難かった。
 今振り返ってみると、むしろ悔いの残ったことのほうが多い。というのも、発足当初から、「ふるさと案内」は自分の足で稼いで紹介したいと思っていたが、十件に満たないお座なりのもので終わってしまったからである。
 県内の四国霊場と遍路道をたどってみたいと思い立ったことがある。
 四国霊場に詳しい先輩に資料をお借りして準備をしていたが、足が動かないうちに、NHKテレビ「街道てくてく旅」の放映が始まっ売。
 四元奈生美卓球選手の、険しいへんろ道を踏破していく健脚ぶり、NHKの取材の周到さに脱帽して頓挫。
 くろしお鉄道の後免ー奈半利線が開通した折、『乗ってみないか』と会長から誘われたことがあった。
 新ネタの暗示であったか?
 車窓の風景、新設の駅周辺、沿線の風物などもいいな、と思いつつ遂に果たし得なかった。
また、若いころに訪れたことのある名所・旧跡。お祭りや行事なども頭に浮かんだが、いずれも計画倒れであった。体力、気力の衰えはやむを得ない事証。悔いも思い出のうち。
 黄昏近い私に、打ち込んで楽しむ機会と生き甲斐を与えていただいたことに感謝するとともに、長期間ご支援下さった皆様に改めて御礼を申し上げます。
 なお、後を引き継いでくれた大須賀氏へのご支援もよろしくお願い申し上げます。
高知電友会ホームページ創始者

廣江満
(高知市)

第186号掲載
  [おもいで話]

 大先輩の思い出話
電電公社時代を振り返って  高知電友会50周年おめでとうございます。
 私は95歳となり、有料老人ホームで高齢の仲間とともに、トランプをしたり歌を歌ったり楽しい余生をおくっております。
 これも、長年電電公社で勤務させていただき年金をいただいているお陰と感謝しております。
 電友会には、90歳になって以降、敬老の日に毎年プレゼントをいただきありがとうございます。
 また四半期毎に送っていただく「電友会報」を心待ちにしており、特に昔の俳旬仲間の安村淑さんや池内寿子さんの俳句等は楽しく読んでおります。
 電電公社時代の思い出は、皆さんに支えられて楽しく過ごさせていただきましたが、女性の管理者育成候補として、頭の良い西村和さんと四国通信局で研修を受け一生懸命勉強をしたことが特に印象に残っております。
 その後、土佐山田局と佐川局の運用の管理者を経て四国通信局運用部調査員で研鐙を積み、最後は伊予中山電報電話局長を勤めさせていただきました。
 当時、四国で最初の女性局長だったため、新聞記者の取材を受けたり、地域の皆様のお付き合い等多忙な日々を送ったことが思い出されます。
 この文章を書きながら、久しぶりに昔の写真を眺め、一緒に仕事をした方々との思い出にひたっております。
電友会の皆様には、健康に留意され、元気にお過ごしになっていただきたいと思います。

大田佳代
(高知市)

第186号掲載
[おもいで話]

電電公社時代のおもいで  私が電気通信省に採用なったのは昭和二十六年四月で採用年齢三〇才。  高知電友会の発足はそれから約十年も経ってからで、当時は入会者も少なく、役員の方々の入会の勧誘により今では押しも押されもしない退職者の会として成長しております。
 私の採用は中年でしたので、年下の者を指導しなければならないのが、反対の立場で勉強する事柄が多くて並みの苦労で無かったことがいまだに忘れられない。
 土佐清水電報電話局では主としてデスクだったので、印象に残っていることと言えば、昭和27年清水測候所の角にあった電柱に故障修理で昇った際、感電により宙吊りになって「スイッチを切ってくれ!」と三回叫んだ事は覚えていたが、すぐに意識を失った。
 気がついてみると清水の裏通りにあった扇谷医院に寝かされていた。「気がついたのか?」の声がまるで歓声の様に聞こえた。別に外傷も無く気分も悪くないので、タクシーで家に帰って見ると親戚や近所の人達が大勢集まって気遣ってくれていたが、元気な顔を見て安心して帰って行かれた。
 当時、医院にはレントゲンの設備も無く、レントゲン写真の事等には気が付かず、最近になって腰痛になり外科病院で詳しくレントゲンを撮って貰うと腰の方の背骨が一筋ずれている事が判明したが、痛くも痒くも無いので骨のズレはそのままにして置く事とした。
 高知通信部の監督三年も、曲りなりに何とか務め、土佐山田電報電話局の巡回保全長も三年間無事勤めた。土佐中村電報電話局に転勤になってからは一生忘れる事の出来ない事ばかりだが、中でも西土佐村(現在は四万十市)の藤ノ川地域集団電話のーブロックの加入者から「遠距離通話の際、音声が低くて聞き取れない状態」との苦情申告を受けた。
 藤ノ川地区は土佐清水市の貝の川より貝の川添いに北に二〇qほどさかのぼった所で四万十市の藤の川と酷似している地域のため、地域集団電話交換所より加入者までの距離が遠く、加入者線輪(テレビで言えばブースター)を等間隔にケーブル芯線に接続して通話に支障が無いようにするため設置しているブースターの故障と判明した。
 電話交換所に近い加入者線輪の取付柱から試験をして下部へ向かって試験をしながら故障箇所を追ってゆくのが実に六日間に及んだ。
 その当時は交通事故が多発している時だったので、一般職員は何処へ行くにも二名乗車となっていたが、巡回保全長だけは除外されていたので、六日間一人で運転し、電柱にも登って故障修理に当たった。結局故障箇所は、一番加入者に近い電柱だった。
月曜日から土曜日まで六日間孤兵奮闘で、まさに蛸をぶっつけた様になって一
日中寝て体の回復に努めたことでした。
 以上が私の高知電友会五〇周年にあたり一番印象に残っている事柄の一端です。 これで終わります。
細川安治
(土佐清水市)

第186号掲載